3.11を語り継ぐ

前回からの続きである。
RIMG0273.JPG
 陸中船越駅を過ぎると「鯨と海の科学館」が見える。収蔵品は甚大な被害を受けた。
RIMG0276.JPG
 陸中山田からは満を持して(?)冨手さん登場。山田線開通の背景には、海軍を誘致しようという計画があったことを冨手さんの話で初めて知った。実際には海軍は大湊に行ってしまったのだが。
 さて、陸中山田から豊間根までの間が、マスコミ取材の区間となった。冨手さんも話をしているのだが、走行する列車の中でもあり、質問する方も答える参加者のほうもついつい声が大きくなる。冨手さんの話は取材中は聞き取れなくなってしまった。やむを得ないことではあるが、少し冨手さんが気の毒であった。
RIMG0281.JPG
 列車は、震災発生時刻の14時46分に、津軽石川の上で汽笛を鳴らし黙祷をささげた。
RIMG0283.JPG
 宮古では、三陸鉄道の社員が総出で出迎えてくれた。
RIMG0284.JPG
 宮古からはまたガイドが交代し、入社2年目の女性社員がヘッドセットをつけた。彼女は地震発生時は小学校6年生だったそうだ。10年という年月はそのくらいの期間だったのだ。震災発生から1週間は小学生は学校から出られず、1週間後に被害に遭った自宅に戻ったこととか、親戚の家でやっと風呂に入ったこととか、叔父が行方不明になってその後遺体で見つかったことを、涙ながらに話してくれた。
 本当につらい体験だと思う。つらい体験けど、後世に語り継いでいってほしい。そのことが、災害の犠牲者を減らすことになるのだと思う。
RIMG0287.JPG
 大沢橋梁で小休止。
 またガイドが交代して、避難所の話になった。折角避難所に来たのに「子どもが保育園にいる」「年寄りが家にいる」といった理由で家に戻ろうとする人がいたそうだが、これはやってはいけないことだといっていた。津波てんでんこという言葉は聞くが、実際に戻って津波に巻き込まれた人の話も聞いた。まず高いところに逃げるのが第一だ。
RIMG0289.JPG
 久慈到着の前に、支援企業のブラザー工業からマスクをいただいた。
 4時間半の列車の旅であったが、疲れたという感じはなかった。欲を言えば、帰りの久慈でのバス乗り継ぎ時間も含めて列車に乗りっぱなしだったので、沿岸部のお土産を買う時間がなかった。盛岡で陸前高田のクッキーを買った。

 最後に、
 「普段から避難所をを確認しておくことが大事だ。避難所に人があふれると、同じ避難所にいても家族と会えないことがある。避難所のなかで目印になるものの前で家族が落ち合うというルールを決めておこう」
という三鉄の方の話を書いておく。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス

この記事へのコメント

  • トキ80000

    こんにちは。
    山田町の海軍の施設に付いてです。
    山田湾の北側(浜川目)に石油タンク(艦船補給用)が有り、その他に、駆潜艇や水上機もいたそうですが、終戦間際に米軍艦載機の空襲で壊滅。(他にも、野田沖・宮古湾外・釜石でも小型艦が沈んでいるみたいですね…。)
    最近の“発掘調査時”に、大量の縄文土器(独特の形の物が多かった)と一緒に、出て来たのは大量の12.7㎜や20㎜の機関銃・砲の弾丸(20㎜機関砲弾は地上攻撃用、しかも“不発弾”と判明して…面倒な事に…!)、更に127㎜ロケット弾のエンジン部分まで…。石油タンクの中は殆ど“空(カラ)”だったでしょうから、パイロットにすれば“練習用の標的”だったんでしょうけどもね…。
    それデワ。
    2021年03月12日 15:07
  • 吉田電車

    トキ80000さんおはようございます。
    山田にも海軍施設があったのですね。
    昔のことは、だんだん誰もわからなくなっていくのだと思いました。
    発掘調査で、不発弾が出てくるとは驚きました。
    2021年03月13日 09:33